昭和48年3月29日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受けることができる。みてるということがない。」
金光大神が教えておられる事は、この神徳を受けると言う事。そしてそれがあの世までも持って行かれ子孫までも残るという程しの神徳を受ける道を教えて下さってあると思うのです。だからその前提としておかげの世界というか、いわゆる御利益の世界があり、そこから神徳を受ける世界へ展開していかねばならんと思うですね。ですからどう言う様な信心をさせて頂いたら神徳を受けるかと言う事なんですけれども、信心する者は何事にも真心になれよと仰る。
私は合楽で皆さんの場合私が感心することは、そんなら朝のこうしたもう私の四時の御祈念にはぼちぼちお参りがあっておる。もう五時の若先生の御祈念の時にはもう殆どの方がお広前に集まっておられる。まあ少しでも遅れたらそれこそ走り込むようにして皆さんが見える。こういう信心の姿勢というものは素晴らしいと思うのですよ。ですからそういう姿勢がです、そういう神様へ向かう姿勢がです、日常の生活の上にも表されなければならないと言う事です。
それですよ、神徳を受けると言う事は、何事にも真心になれよと言う事はそれなんです。私がどうもおかしいおかしいといつも言う様に、これ程しの信心が出来よってこの人はどうしておかげ頂かれしゃれんじゃろうかというのはです、そこんところに開きがあるのです。神様に向けた、お広前へ向けた、いうなら朝の御祈念と言う様な心を神様へ向けて来る時だけは、もうそれこそこの様にキチッとした御信心が皆さん出来ておられる。だからそれがそのまま、家庭の生活の中に頂けると言う事なんです。
心を神様へ向ける、何事にも、真心になれよと言う事は、もうあらゆる会合の時、私はそれを思うのですけれども、昨日も本当に例えば、合楽の御比礼を、他所の信者さん方に、見たり聞いたりして貰うと言う事は、そのままです、合楽を良くみて貰いたいと言った様なけちな考えじゃない。本当のおかげを頂いて貰いたい、と思う為にでも精進しなければいけない。
昨日十時に私が御祈念の座に着いた時にはどうでしょうか。合楽の方達は十名位しかなかったです。もうそれだけでお徳を受ける信心が欠けておるのです。しかも私を中心ではない。教会を挙げてという時にはです、いうならば自分とか自分の一家ではない、教会を中心とする教会を思う教会愛がそういう時に発露して来なければいけないです。それはよくせきの用事が有った。
又は勤めなんぞに出ておる人は、お参りもそれは出来ません。けれどもです、そんなら例えば、今日はこうだから子供にでもよいじゃないですか、家内にでもよいじゃないですか。もう初めの間は、あんまりパラッとしとったもんで、初められんじゃった。それからまあ十分ばかりしましたら、ゾロゾロ皆さん見えられました。けれども殆んどは、他所の御信者さんでした。
段々進んで行くに従って合楽の御信者さんで大体会堂が一杯になりましたけれどもです、それではいわゆる、おかげを頂く世界にはおってもお徳を受ける世界でないことを私共は知らなければいけない。何事も真心になれよと惜しい、もうこの人ばっかりはこれだけの信心が出来るのに惜しいという人が有りますよ。いわゆる影と日向が有るです。いうなら私の眼の前ではこれ程の信心が出来ておるのに。
いうなら私の眼の届かないところではそげなこことしてから、もう本当にガターッと信心を落としてしまうじゃんのという人が有るです。というて、それを言う事は責めることになるし教えてあげてもそれを本当に自分がですね、もう信心とはというところにひとつ思いを置かなければ駄目です。どんな修行しても駄目です。もう実意丁寧、いわゆるおかげを頂く世界はいいですよ。
今日の御理解の信心すれば誰でもお徳を頂くことが出来る、みてると言う事が無い程しのです、おかげを頂かなければという、まあ観点に立ってのお話なんです。いわゆるお徳を受けると言う事なんです。いやむしろ、先生が見てござらんところをかえって大事にする人です。お徳を受けて行く人は、昨日三カ所の教会の御信者さんが代表で発表されました。もう私は本当に感心致しました。一番に南久留米の教会の中島と云う御信者さんが、もうそれこそ戦争中に無い命を助けて貰った。
甘木の初代のお取次を頂いて生還のおかげを頂いたという人が南久留米教会に御縁を頂かれて段々信心に依っておかげを頂いて、もうそれこそ現在では自分の屋敷が四百坪も有る所におかげを頂いて子供達やら娘達がみんなおかげ頂く。けれども信心にはついて来ない。家族の者がそしてそういうおかげを頂いて、もうそれこそ日勝り月勝り年勝りのおかげを頂いて、もう悠々自適の生活をさせて頂いておりますと云う発表があった。もう金光様の御信心は確かにそういうおかげが受けられるです。
二十年も経ったらです、もう二十年後にはそういうおかげが確かに頂かれるです。又これは旗崎の教会の御婦人の方が話しておりました。大変困ったところから御神縁を頂いて、この方も大体福岡の教会で御神縁を頂いた。そしてこちらへ来て旗崎教会で、それにもう十数年朝の三時過ぎには起き出て、そして四時には教会に着きます。それから御神前のお掃除をさせて頂くようになってもう十何年になります。
その間に様々なおかげを頂いて、もうそれこそ、日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いておる。私は感心しました事は、その人が日々の生活の中にもう不平不足を言わんで済む精進を一生懸命しとりますと言うておりました。もう本当に素晴らしいと思いました。それは普通から見ればおかげ話ですから、そげな話どもしてというところかも知れませんけれども、そういうおかげが表されるところまで精進しておられるというところが素晴らしいでしょうが。
けれどもね、そんなら代勝りのおかげを受ける信心ではないと言う事です。何故って家族の者がついて来とらん。もうそれこそ本当に日勝り月勝り、私はそういうおかげであったんでは金光様の御信心は値打はないと思うです。お父さんの時代はあげん繁盛してござったばってん、子供さんの時代になったらピシャッと落としてしもうたという結果に必ずなってくるです。これはもう私共が知って居る。ここ四、五十年間の事をいうてもそうです。だから金光様の信心すりゃそういうおかげは受けられるです。
だからそういうおかげを受けながらです、このお徳を受けられる信心の世界に、いわゆる最近申しております様にね、いわゆる次元の違った世界、いうならおかげの世界から御神徳の世界、彼岸の彼方とそこに移らせて頂く為にはです、お地蔵様も有難いけれど、又赤鬼青鬼も又有難いというあのさいの河原のお話のところが身に付かなければならない。そういう意味で合楽でここ二十数年間、私はここのところばかりを説いてきて居ると思うです。だからそういうお話を頂く上にも頂いておってです。
そんなら陰と日向のものがあったり、皆さん朝参りのこの姿勢がです、そのまま信心生活に向けられると言う事ですよ。お徳を受けると言う事は。ですからです、もう昨日のような会合の時にはもう他所の方達は入り所の無かという位に集まって来る位な合楽の信者がそういう例えば、何事にも信心にならせて頂けるような姿になった時初めて合楽の信心が世に問われるときだと思うです。
あっちの先生はそうかも知れんばってん、あっちの信者はと、言われるような事で、もうそれでお徳は受けられんです。おかげは受けますけれども、どうぞ皆さん肝に命じておって下さいよ。親先生を思うとか、合楽教会を思うとかと言う事がです、そういう時にです、真心で表されると言う事なんです。何事も真心になれよと、それがお徳を受けて行くのです。次に秋永嘉朗さんが発表しておりました。ここから佐田恵美子さんと、二人発表されました。
そして改めて合楽の信心を身につけていっておると言う事が素晴らしいなあと思いました。いわゆるおかげを頂き頂きお徳の世界に姿勢を向けておると言う事。神になり神に奉られることを楽しみに信心せよと、只信心しよれば誰でも神になると言う事じゃない。嘉朗さんは難はみかげ、難有って喜べと云う四神様と教祖様の御教えを引いて、ここでは親先生は「難儀はおかげへの招待状だ」と言われる。そのおかげの座への招待状と言う事は、お徳のおかげと言う事も含まれておる訳ですよ。
ここでおかげというのはいうならお徳を受ける為のお徳の座に座らせて貰えれる招待状だと言われますと言う事を自分の若い時から、いわゆる倒れ転びして今日有る事を聞いて貰ってました。もう佐田さんあたりのお話は簡単な十五分あまりのお話でしたですけれども、もう合楽の信心を、もうそれこそ浮き彫りにしたようなお話でしたね。最後に締めくくりに言っておられました、金光大神賛歌と言う事。
そういう信心にまい進したい。有難いことは日々私共がです、天地のリズムを聞きながらそのリズムに乗っての信心生活の素晴らしさを具体的は言われんけれども、そういう説明をしておられました。お徳を受けると言う事は、天地のリズムがいつも聞こえると言う事なんです。ですから皆さんが信心の耳を傾けたらです、例えばです、もうそれこそ合楽で昨日のような信徒共励会が有る時には神様がここにささやいておられる「早よ、急がんか急がんか、もう時間に間に合わんが」という声を聞かなければ嘘です。
そして合楽の方達の全てはです、そんなら昨日旗崎、又は南久留米の御信者さんが言っておられるように、悠々自適のおかげは誰あれも頂いておりませんけれどもです、そういう日々いうなら天地のリズムを聞きながらその日その日のおかげを頂いて行きながらお徳の世界二入っておられると言う事が一番素晴らしいと思いました。ですからね、その天地のリズムを聞くと言う事は、そのリズムに乗ると言う事はもう何事にも真心にならなければおられない程しのリズムがある。奏でられておる筈です。
それを自分の都合のよか時だけ耳を傾け、自分の都合のよか時にはここにガンガンいうごと有りよったっちゃ、もうよかよかという主義の生き方です。いわゆる蔭と日向の心で信心を如何に進めたところでです、お徳を受けることを如何に教えて頂いても、もうそれだけでプラス、マイナス、おかげは頂けても、いわゆる尽きぬ程しのお徳の世界、神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。そういう誰でも受けることが出来るという信心でなからなければならないと言う事です。
只お参りしよります、おがみよりますと言う事ではいけない。そのお参りもしております、拝んでもおります。特にそんなら合楽の方達のこれは本当に他所に類例がない様に思います。朝の御祈念にこれだけお広前いっぱいにピシャーッと揃うてしまうと言った様な、もうその中間には参って来る人が無い。殆んど五時の御祈念にはピシャッとこうやって皆さんが神前に向い御教えを、云うならば頂かせて頂くと言う様な事を本当に他所の教会では珍しいです。私の知ってる限りの教会では。
ですからそういう神様へ向ける姿勢がです、日常生活の上に表されなければお徳を受ける世界には住まれない。昨日聞かせて頂いたあっちこっちの信者さんのです、日勝り月勝り年勝りのおかげは確かに頂いておられるけれどもです、いわゆる代勝りのおかげになるというところがおろそかになっておるなあ、惜しいなあと思いました。まさりと言う事は、子供の代孫の代に伝わる、その伝わるものがもう家でも倉でも財産でもない、いうなら御神徳だけですからもう本当に心しなければいけない事でしょうね。
どうぞ。